マンガ『キングダム』から学ぶ、人間力 

 『キングダム』は70巻を超えて連載が続く、人気漫画で、アニメ、映画にもなっている。私はどれも楽しめた。こんなに何回も何回も読み返したくなる漫画は初めてだった。こんなに飽きずに魅せられてしまうのは、なぜか?を書き出してみたいと思う。

 舞台は、紀元前の戦国時代の中国で、秦が中華統一を目指すストーリーだ。やはり、残忍な戦闘シーンがあるのだが、テーマは「500年続いた戦乱の世を終わらせ、平和な世界を創ること」である。

根拠のない、強い自信

 誰もが、殺し合いの戦争を無くすことは不可能だとあきらめる中で、「もっとも非力な王となった少年」”嬴政(えいせい)”と「下僕から大将軍を目指す少年」”信(しん)”の二人は協力して、中華を統一することで、国境を無くし、人と人が殺し合わない世界を創りあげようとする。

 ご想像通り、みんなから、「そんなこと無理に決まってる!」「何バカなこと言ってるんだ!」と非難される。そして、何度も窮地に追い込まれる。それなのに、この二人だけは最後まで信じてあきらめないし、限界をもたず自分達の能力を発揮し尽くす。そして、それに周りが魅せられ、仲間が増え、敵対していた人達さえもついてくるようになる。その二人の望みが、多くの人々の望みにもなり、一丸となって夢を引き寄せ、現実化していく。まず、このストーリーが好きだ。

 見栄やお金の為ではなく、誰かにそう望まれているからでもなく、この一回の人生で、本気で自分がやりたいと思ったことをやろうとする時、こういう”根拠のない、強い自信”が持ち続けられるものだと思う。こういう思いをもって生きられるのは、幸せだと思う。私も今、それをまた見つけたいと思っている。

嬴政(えいせい)の飛び抜けた人間性

 嬴政(えいせい)は王になる前に、敵国で幼少期を送り、母を含め、身の回りの全ての人から、恐ろしい程の恨みを日々暴力にして受ける。そして、秦国に引き戻される時、殺されかける。そこで、人生で初めて、自分を命がけで守ってくれる人に出会う。そして、その人の人間性に、大きな優しさと強さ、強烈な光を感じとる。その後、信をはじめ、思いを同じくして忠誠を尽くす者達に出会う。

 10代で既に、人間の持つ両面、光と闇とを強烈に知ったのである。普通は闇の方が強く残り、自分に酷いことをした人間への怒り、憎しみが感情を支配するだろう。そして、人は傷つけてくるから愛せない、信じられない、自己中心的で浅はかなものと思いたくなるだろう。一番近い存在の母親にさえ、憎まれ、虐待されていたのだ。心身に受けた傷は相当大きい。

 それでも、嬴政(えいせい)は、光の面を信じた。人間の本質は光だと。それを闇に変えたのは、戦争のせい、嫌な目に遭ったせいだとして、その人の本質を闇とはしなかった。すごい視点の持ち方だと思う。これが万人にできたら、争い事は起こらない。

 あなたは、できるだろうか?嫌いになった人を思い出してみて、自分に嫌な事をしたのは、その人がずるくて悪い人だからではなく、その人がそれまでに嫌な目に遭ったせいでやってしまったことで、本当は心に光をもつ人なんだと見直せるだろうか?私は、頭ではできると言いつつ、まだ、心がついていかないのが正直なところだ。もっと、嬴政(えいせい)に学ばなければと思う。

人を許し、前に進める人間力 ~精神性の成熟~

 嬴政(えいせい)は、母親が人生でずっと酷い目に遭ってきたことを憂い、その痛みに寄り添った。自分が母親にされた酷いことより、母親が受けてきた酷いことの方に焦点を当てたのだ。そして、母親を許せている。ここがすごい。自分への愛情が全くないと分かっても、見返りを求めず、自分は愛情をもっていられるのだ。

 「かわいそうな自分」に強くとらわれるのが人間なのに、なぜ、とらわれないでいられるのだろうか?「私にひどいことをした」「私を愛してくれない」と、”自分は被害者だ”という視点がないのはなぜか?

 思いつくことを3つにまとめてみた。

  1. ”人の本質が光であること”を信じ抜ける経験を得られたから。
  2. 他人の言動によって揺らぐことのない自分をもっていて、人生で”強い信念を   もって行うこと”が見つけられているから。
  3. 人の闇の部分を嫌というほど味わい尽くした結果、相手を憎み、恨み、自分の思う様にしてくれないことを嘆き続けても、何も解決しないことを学んだから。 

 具体的に、嬴政(えいせい)についていえば、命を懸けて自分を守ってくれた、紫夏(しか)という恩人に出会ったこと。これは、他者からの無償の大きな愛をうけた経験である。また、王として、「この世から戦乱を無くす道を生き抜く」という信念をもったこと。自分の在り方、生き方にぶれない軸が立ち、実現させたいビジョンが鮮明にあり、真っ直ぐ向かえる情熱が尽きない状態である。他人や周りの状況に左右されない、自分だけが自分の人生の創造主になれている強さがある。さらには、敵国で生まれてすぐから、人の残酷さ、怒り、嘆き、恨み、妬み、苦しみ等、嫌という程に身に受け続けた結果、どうすればそれらから救われるか、どうすればそんな負の面を持たずに人は生きられるか、を考え抜く経験を積んだと思う。それは、堂々巡りの事態を前に進ませる発想である。辛くて困難から逃避することがよくあるが、それをせず、きちんと受け止めた人ができる発想である。

 嬴政(えいせい)は母親だけでなく、自分から王座を奪う反乱を起こした弟に対しても、反省を促した後には許し、信頼して、その力を頼った。自分に敵対した勢力の者たちに対しても、国としての連帯感をもたせるために、味方と同じく、分け隔てなく対応した。また、誰でも才能を見込んで登用した。自分を殺そうとしたことを恨んで、やり返すなんてことをしていないのだ。中華統一という自分の夢に向かうことだけを追い求めて、他に気を取られない。少しも自分の感情を他にあてつけない。こんな綺麗な生き方ができるのはいいな、と思う。この域に精神性を高められれば、日々憂うことも減り、幸せでいられると思った。

 自分がやりたいと思っていることだから、国どころか中華全域に及ぶ人々への責任を負うことへも、躊躇なく、プレッシャーに押しつぶされることもなく、邁進できる強さがある。生き方に命を懸けている。人の悲劇を無くす為、という思いは揺らがない。自分の受けた悲劇を恨むのではなく、その悲劇を、この世から無くすべきものとして知るための経験だったとしている。

 日々、人が受ける悲劇、苦しみ、悲しみ、辛さなどを、生きる糧にするとはこういうことだろう。同じ様な思いをする人を無くすために、自分が世の中に働きかけること。痛みを知ることで、その痛みを生み出さないようにする力を出すこと。きっと、それが人間の世界で望まれていると思う。

 しかし、ほとんどの人はそこまで考えが及ばない。思わず感情で動いてしまう。本当に私もそうだ。怒りと憎しみは日々増幅し、許せず、同じ目にあわせて、やり返そうとする様になる。そうして、悲劇を繰り返す。そのレベルをどこかで誰かが脱していかないと、終わりが来ないのだ。一歩引いて考えてみると、なるほどだ。

多くの人を惹きつけ、信頼される、信の人間性

 私は信の大ファンです。人間ってこういうところがあるからいいな、って思わせられる。

 信は戦争孤児で下僕として引き取られた家で、同じ境遇の少年、漂(ひょう)と出会い、大親友になり、共に天下の大将軍になる夢をもつ。そして、漂を亡くすと同時に、嬴政(えいせい)に出会い、嬴政(えいせい)と共に中華統一を果たす大将軍になることを目指すようになる。

 信が強く憧れる天下の大将軍像が私も好きだ。まず、正義の味方である。一方的に虐げられる人、弱い立場の人を助け、力のある者とは正々堂々と戦い、必ず勝っていく。

 そして、仲間を大切に思い、負けた相手の思いも大切にできる。育った村の人々も忘れず大切にし、自分が隊長なのに、隊の誰が冗談でバカ呼ばわりしても怒らない。おごらないのだ。隊員の全員に対して、まず信が、絶対的な信頼をおいている。武力的な強者には部下であっても、敵であっても、敬意を抱き、学ぼうとする。自分の弱さを認め、さらに強くなるために、例え立場が下の人であっても、頭を下げ、学ぶ事をいとわないのだ。

 一人一人をありのままに受け入れ、尊重し、誰とでも対等に立ち、横のつながりを築いていく。その時、無条件の信頼を相手におくことができる。根本の人間愛が深い。ここが、信の最大の魅力である。そんな信だから、人々から愛され、仲間からの信頼も厚く、信の隊の結束力も強くなる。

 また、圧倒的な強さも魅力なのだが、信が誰よりも強くなれるのは、自分への絶対的な自信を持っていると共に、大切に思う多くの他者の思いをも引き継ぐという人間愛にあふれているからである。特に、漂(ひょう)をはじめ、亡くなった者達が叶えきれなかった夢を、今生きている自分が叶えたいという思いを抱えている。他者を思う気持ちの大きな者には、人を超えた勇敢さ、強さ、凄さが現われてくる。自分一人の為だけでいる者は、それにかなわない。

 親の愛情も受けた覚えがなく、幼い頃から下僕として働かされ、バカにされて生きてきたのに、この人間愛に基づく人付き合いができる力がすごい!親に育てられなかった分、社会の固定概念が入らず、子どもの頃の純真さのままに生きられたからかもしれない。そして、自分の心からの願望に沿って、自由に生きられたからかもしれない。

 また、信は、お金や権力、地位に全く執着がなく、そういうものによって人を判断しない。武力第一の社会だったからかもしれないが、私利私欲におぼれない誠実さともとれる。それも、人間愛の深さがあるからだ。自分だけ楽しむよりも、大切な人達も楽しむ方がいいと思うのだから。そうなると、自然と目指すものが、全体の平和というような、純粋に高尚になる。ということは逆に、個人個人で利益を奪い合う形の社会に生きる人は、自然と私利私欲におぼれやすくなるということかもしれない。また、そういう社会構造からは、全体の幸せや豊かさという視点は生まれにくいともいえる。

 下僕という卑下されることの多い身分であったことを隠したり、憂いたりすることなく、臆せず、自分をもって人と対する強さがある。嬴政(えいせい)と同じく、他者に左右されることのない、ぶれない自分軸をもっている。自分自身への信頼も厚いのだろう。だからこそ、人間関係に上下をつけずに真っ直ぐに関わり、どんな人の思いも尊重できるのだろう。ということは、自分軸がなく、周りの承認や評価、状況によって、自分がブレてしまう生き方の人ほど、上下関係に頼り、地位や名誉にこだわり、おごったり、卑下したりしやすいともいえるだろう。

 今の世の中、いかに自分軸をもって生きられるか、人間愛を深められるか、が、幸せに人間の良さを味わって生きられる鍵であると分かる。

嬴政(えいせい)が読み解く、「人間の本質とは・・・」

 「人間の本質とは何か?」と問われたら、何と答えるだろうか?嬴政(えいせい)と信は、どちらもが、それぞれ違った場面で、こう問われて答えている。

 まず、嬴政(えいせい)は、呂不韋との対話の中で、人間の本質について問われた。呂不韋は、『戦争は、紛れもない人間の本質の表れである。だからなくならない。』と断言した。貨幣制度ができたことで、天(自然界)ではなく、金によって人間を支配するようになった。だから、人間達のもつ”他より多くを得たい”という強烈な我欲を操って、金で天下を治めればよい、と主張した。秦をより豊かな国にすることで人々は喜び、戦争も起こさせないで済むと。つまり、秦を一番の金持ちにして、中華全体の経済を牛耳り、他国を金で従わせると。私はなんだかこれを聞いていて、まさに、今の資本主義社会の世界のことだな、と思えた。

 この呂不韋の主張に対して、嬴政(えいせい)はこういう。

「お前達は人の本質を大きく見誤っている。凶暴性も醜悪さも人間の持つ側面だが、決して本質ではない。その見誤りから、争いはなくならないものと思い込む。それは、人へのあきらめだ!」

 そして、人の本質は光だと結論付ける。

 人は、自分の中心にある光を必死に輝かせて死んでいくもの。そしてその光を、次の者が受け継ぎ、さらに力強く光り輝かせる。そうやって人はつながり、より良い方向へ前進する。

 人が闇に落ちるのは、己の光の有り様を見失うから。人を闇に落とす最大のものが戦争である。だから戦争をこの世から無くす!そして、中華を分け隔てなく、上も下もなく、一つにする。そうすれば、人が人を殺さなくてすむ世界になる。

 嬴政(えいせい)は、自分がそれを成し遂げる王となると断言するのである。それを聞いた味方も敵も、涙があふれたのは心の芯に響くことだからだろう。自分たちがあきらめてきたけれど、心から望むことだったからだろう。現代を生きる私達も、どこかあきらめて、本当の願いにフタをして生きていないだろうか?自分たちが何をぼやいても、何も変わらないと。何もできるはずがないと。自分一人やろうとしたところで、バカをみるだけだと。

 このお話の中でも、ほとんどの人はそう思っていたと思うが、嬴政(えいせい)と信は自分の思いに素直に行動を起こしたのだ。

 バカだ、狂ってる、などと多くにののしられながらも、人の心を動かし、徐々に味方を増やし、数々の奇跡を起こし、前進する。多分、神様が味方したくなるのだろう、自分の中心にある光に従って精一杯生きている人には。

信が見つけた「人間の本質とは・・・」

 信は、韓非子に「人間の本質とは何か?」と問われる。韓非子は性悪説に基づいて法を考えた人である。人の善悪について研究してきていた。そこで、人は善では生きられない、私利私欲で世を食い尽くすという結論から、法によって統制しようとした。現代社会も法治国家である。だから、韓非子は正しい。

 それに対して、信は視点によって人の善悪とはコロコロ変わるものだという。善悪の判断よりも、全員変わらず持っているものが本質で、重要なのだと言う。

 それは、「命の火」と「思いの火」だと言う。そして、「命の火」は消えてしまうけど、「思いの火」は敵味方なく次のものが受け取れる。そうして思いを紡ぐことで、「思いの火」を大きくしていき、人はより大きなことを成し遂げられるようになると。人は愚かだから法で御すことが必要だが、悪だ断定するのは人へのあきらめになると。法に従わせてでもなんとかしようとしている韓非子は、人の善をあきらめていないからではないか?と問い返した。

 人との付き合いでも、自分の主観によって、相手を善悪でふるい分け、少しでも嫌なところをみたら悪として切り捨てていくのは、違うのだろうなと気づいた。悪ではなく、その人の未熟さなのだ。もし、自分だったらそんなことしないのに、と思うなら、自分の方が人付き合いの成長において、一歩進んでいると捉えればいい。人のことに思いが及ばないという相手の未熟さを許し、成長を期待しておけばいい。自分も含め、完璧な人などいないのだから。また、自分を責め悔む時も、ほどほどにして、他者と同じく、未熟さを許し、次に期待したらいいのだ。私はいつも、自分も相手も責めすぎかもしれない。

 人には良い面(成長しているところ)と悪い面(未熟、愚かなところ)の、どちらもあるのが普通なのだ。また、自分の持つ善悪の基準が万人にとっても同じだというのは、思い込みでもある。きっと、善悪の基準が人それぞれにあるのだ。さらには、嫌な面を知ることで、さらに良い面の貴重さを深く理解できるという事実もある。

 人は光ばかり見て、光の中だけ生きるのでは不十分なのだ。嬴政(えいせい)も信も、人間の闇の部分、嫌な部分をしっかりと味わい尽くした上で、光の部分、良い部分への思いを一層強め、光を、火をより大きくして前進できている。

 物事は全て両面あり、どちらも味わってこそ全貌が見えるのかもしれない。きつい現実は嫌で避けたいと思っていたけれど、自分の成長に必要と分かれば前向きに捉えられてもくる。

 「自分がかわいそうだ、相手はなんてひどいやつなんだ!」という被害者意識にずっととらわれているのではなく、この経験は、自分の糧になる、人の闇の部分の勉強会なんだと客観的になろうと思う。キツイ事が来たら、何か学ぶべきことがあって起こってて、これを学べば、レベルアップできるんだ、という風に思ってみてしまえば、きっと実際そうなるだろう。憎しみ、争いの悪循環を断ち切れるカギを握るのは、案外、こういう個人レベルでの意識改革によるのかもしれない。意地悪マンにも、感謝かな。

キングダム愛は止まらない!

 まだまだ、面白さはたくさんある。とにかく、どの登場人物にも心惹かれる人間性がある。お互いへの思いが熱い。こんなに読み手の感情を揺さぶり、涙したり、やったー!と喜んだり、辛がったりさせられるのはすごい。人間に生まれたからには、味わい尽くしたい感情をたくさん味わわせてくれる。生々しい人間世界の闇の部分も描きつつ、それぞれが寄せる思い、受け継ぐ思い、目指す世界が綺麗であることが魅力の一つだ。

 現実では、今なお、そんなのは偽善者、理想論、綺麗ごととか言われて相手にされない感じだが、描けるものなら描きたい理想像をみせてくれている。

ただ生きてるだけじゃだめなんだ。人のもつ光も闇も受け入れて、より良く生きることを、ただ一人でも、あきらめないこと。先人達の思いを紡いで、今在る仲間達と共に叶えていこう。

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