私はなぜ、文章を書くのか?

本田健さんの「ハッピーライティングマラソン」に参加します】

 私が書こうと思う時、「自分の感じる好きを表現して、残したい!」という願いが一番強い。書いて、好きを表現しながら、自分でもう一度、それを味わい愛でて楽しむ。

 なぜだか心惹かれること、何だか頭から離れなくなることがある。そういう”活きがいい”感覚は、今しかないかもしれないと思うと、忘れる前につかまえて、形にして、残したくなる。

 話すには、聞いてくれる相手を探す必要があるが、書くなら、相手がいらない。自分の世界に好きにハマって、自由に表現していられる。普通に社会で生活していると、なかなかそんな風に自分を目一杯、楽しんで、表現できる場面はない。そうして、自分を楽しんだ後は、やっぱり誰かに共感して欲しくなる。似ている感覚の人と書いたものを通して繋がれると嬉しい。一緒に楽しんでもらえたら、さらに嬉しくなるものだ。

 また、時には、自分が生きて学んだことをまとめて、誰かの役に立たせてもらいたくなる。もともと教育に関心がある私は、ついつい教えたくなってしまう。そして、教わった人はそこから、私以上にその学びを発展させてくれるはずだから、その可能性も楽しみになる。時代も世代も超えて、経験・知識・智恵が引き継がれ、活かされていく。みんなの連携プレーでゴールに近づく感じだ。

 昔、小学生時代に、なんでもいいから作文を書くように言われた時、私は困り果てて、「作文が書けない」という題にした記憶がある。そして、先生に書き直せと叱られた。今、思い出すと、笑ってしまう。確か、周りの友達もみんな、書けなくて困っていた。どうしてあんなに書けなかったのかな、と振り返って思い当たることは、きっと、その国語の時間には、”活きがいい”感覚の書きたいものがなかったからだ。

 しかし、中学生の時、物語の続きを自分の好きなように書いていい授業があり、私は長編大作を書き上げ、授業参観で発表させてもらった思い出がある。なぜ、そんなに書けたのかというと、直前に海へ出かけていて、そこで、夕焼けを反射させ、エメラルドグリーンの波が虹色に光る光景を目に焼き付けてきたからだった。物語の主人公にも、その波の美しさを味わってもらったのだ。まだ、スマホもカメラも自分のがもてない時代だったので、撮って残せずいた海を、一生懸命書いてそこに再現させていた。あの時は、スラスラ書けて、楽しかった。

 あれから、受験、就職、仕事、結婚、出産、仕事復帰と続き、怒涛の如く時は過ぎ、自分の好きなものを感じる余裕もなくなっていた。だから今、我に返って、心からいいなと思えるものについて、こうして綴る機会を得て、有難く思う。思わず書きたくなるようなものに、出会える日々であることを、幸せに思う今日この頃である。

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